宮本百合子

勤労人民にとって、時間の内容が、どう詰められているか、ということは、ほんとうに深刻重大なことである。働くものにとって「時間は人間成長の箱であ る」けれども、働かせるものにとっては「時は金なり」という矛盾した勤労の関係が存在していることが、今日のわたしたちの悲劇なのである。
生産工場でない場所では、より多い一時間の労働の生産が、企業者にどれだけの利潤を与えるかということは、見えていない。ただそこには非能率的に組織さ れた、面倒な書類とハンコのぐるぐるまわしがあって、人々を机にしばりつけている。一日に何時間、書類とハンコは生きている若い命を机にしばりつけている のだろうか。能率よく民主化された執務の方法ということは、人間らしさをとりもどしてゆくための真面目な課題となって来ているのである。

 自分としてはかなり物足りなかった。勿論、退屈な時、手当り次第に雑誌でも繙くように其場かぎりな、相手にも自分にも責任をもたない気分で目だけ楽しませようと云うのならば何も云うべきことはない。けれども、現在は兎に角、将来の長い時間の為に、女優劇は、今のような、一段、気を許した雰囲気にあることは慶ぶべきことではないと思う。真個に気を入れて見て、其でうんと云わせる舞台が、女優独特の実力で創造されて欲しいのである。
 自分が終りまで遂にたんのう出来なかった原因の一つは、脚本そのものが余り光彩陸離たるものでなかったことと、二つには、演出する俳優の心の態度が、ぴったりと自分の胸に響いて来なかったことである。
 一番目「恋の信玄」などは、早苗姫が自殺してからの信玄の心理的経路が鮮明に描かれていなかったらしい為に、肝心の幕切れで、信玄と云う人格、早苗姫の死が、一向栄えないものになったように見える。
 作者は、所々で、信玄を、英雄的概念から脱した人間らしい一性格として扱おうとしているらしい暗示を感じさせる。同じ早苗姫を我ものとする為には親子の離反を厭わず、家国の安危を度外視するにしても、従来のように其動機を只外面からのみ照して、信玄とも云われようものが、何、仕て出来ないことがあろうかと云う名に動かされた行為とはせず、彼時代の圏境の裡に武将として育った一人の人間が、一旦思い込んだら、是が非でも其を通さずには止まない性格的悲劇を捕えようとしたらしい節々が、傅役虎昌の科白のうちにも仄めかされているのである。

 トゥウェルスカヤ通りの角に宏壮な郵電省の建物がある。
 赤い滝のように旗でかざられた正面の大石段の上に立って見渡すと、デモは今赤い広場に向って、動き出そうとしているところである。空では数台の飛行機が分列式を行っている。
 赤いプラカートの波! 波! 波!
 丁度目の前を製糸工場、赤いバラの労働婦人群が通過するところである。
女を台所から解放しろ!
生産経済計画を実現しろ!
五ヵ年計画を四年で!
 これらスローガンを書いた赤い横旗を捧げて行く二人の女は、コーカサスの風俗をしている。
 オヤ、何だ? あすこから来るのは。
 石段の上下にあふれている見物の群衆は一斉に賑やかな行進曲の聞える上手の一団を眺めた。
 近づいて見ると――
 ハッハッハア。これは愉快だ。張り物である。
 ウンとふとってとび出た腹に金ぐさりをまきつけて、シルク・ハットをかぶったブルジョア。
 青い陰険な顔をした法王。黒い長衣着て黒長靴と云ういでたちの富農、それら三つの頭の上に、どえらいハンマーを握った労働者の手と、カマを持った農民の手とが、こしらえてある。